2006年05月20日

白夜のワルキューレ

歌番組ハシゴで嵐ヲタ総祭りな空気をまったく読まずにワルキューレです。

たくさんのちいさな謎は当たり前に残ってるんだけど
ひとまず自分の中ではこれ以上咀嚼できまい、てとこまできたと思うんで感想文。
解釈なんてそれぞれだと思うんだけどね。
というか、せっかくお金出して観てるんだし
わかんないならわかんないなりにコネ回してみるのもいいんじゃないかと思うわけです。
あくまでも私見で所感。
これはあたしの答えなので、正解でなくとも構わないのです。なんちて。えへ。



まずは懺悔から。
パンフ読んだら恥ずかしくて仕方ありませんですハイ。
神様=オーディンとか当たり前に前提だし、
ていうか神話分かってないじゃん自分、て汗かいたりしました。
ちなみに前回までの感想、読みが完全に自分ナイズされてます。英語読みでしたあたし。
オーディン=ヴォーダン、バルハラ=ワルハラ、シグルズ=ジークフリードです。
でもってその後の信長って2役じゃないんだね。
それもごめん。

でまあ一通り目ぇ通して、へぇ〜、てなったり
原作を知ってるお友達に助けてもらったりしながら
それまで持ってた感想と照らして整理してみた感じです。
まず全体所感。


観た直後、友だちに向かってのひとこと目は「しんどい」
ふたこと目は「野田さんて学生運動とかやってたの?」でした。

その後いろんなことぐるぐる考えましたが、
なんだかんだ観劇直後のその2つだけでぜんぶ言い切ってる気もします。
でもせっかく色々考えたので残しておこうかなと。
というわけで、無駄に長いですが途中まででも、
いやいっそサワリだけでも読んでやってくださるとうれしいっていうか・・・(低姿勢)



飛びつづけるサスケの姿はいろんなことを象徴していて
観ていてキツかったです。

空飛びサスケとして、世界記録を跳ぶという夢を叶えた姿。
ジークフリードとして、ブリュンヒルデ(眠り姫)を救い出して、
ユグドラシルを超えて飛ぶ姿。
(ユグドラシル(世界樹)の枝は神様の世界の端から端まで伸びていて世界を覆っている。
=既存の世界からの脱却)
そして、散って行ったテロリストたちを救えなかった、でも目覚めていた人たち
(全共闘時代に、戦うために暴力を使わない選択をしていた人たち)の
後悔と願いの象徴なのかなあ、と思う。
一般人のモチーフとしてのサスケが、
まさかの友だち=その後の信長(テロリスト)の想いを汲んで羽ばたく。
その時代を生きてきた人のやりきれなかった気持ちと、
でもやっぱり暴力による闘争は賛成できないって想いと、
それを救える可能性を秘めているのはどこにでもいる青年(サスケ)なんだという提示。
そうであって欲しいという願い。

観ていたその場では、何にも整理できずに頭がパツパツになっていて
テンパり放題な状態でここのシーンを受け止めなきゃいけなくて
そのこと自体がしんどかったです。
流れから行って、まずラストは飛ぶだろうなって思ってたにも関わらず
とにかく圧倒されました。だから怖かったよ、すごく。


今思うことは、これを今、この平成の時代に再演したことの意義。
時代が変わって、戦うことを知らない世代が大人になって、
今となってはそういう人たちが社会の大部分を占めてる。もちろんあたしも含め。
権利ってのは与えられるもので、勝ち取るものであったことなんてないもんね。
だから肌で理解するって無理だと思うんだわ。
でもって演る側も、それを望んでるわけじゃないと思う。
ただ、そういう時代があって、
そしてあの頃、エネルギーの塊として表に見えていた、
闘争本能とか、命を賭してでも勝ち取りたいと結論する思考回路だとか、
そういうものが本質的な意味であたしたちにも備わってるんだよ、と
見せ付けられたように思う。

人ってのは時流に呑まれやすいんだって意味もこめられてるのかな。
「本当にこれでいいのかな」と思いながら仲間=過激派の目が怖くて口に出せなかったり
暴力が基本の凄惨な情景に慣れて大事なところがマヒしたりってのもあったと思うんだわ。
こわいでしょ、集団心理ってさ。
いい言い方じゃないけど、一種のトランス状態に近いんじゃないかと。
だから、そういうことへの警鐘。
目覚めなさい、そして考えなさい、って。
小人でも巨人でもない、ヒトの視線を持って考えなさい。
そして自分だけの結論を出しなさい。
持論を持って生きなさい。
とまあ、こんな受け止め方をしたので、メッセージ性の強い作品だなあ、と思いました。

んでは続いてこまかい話。
ちゃんとしたあらすじは戯曲とか、劇評なんかをどうぞ。
あたしの見方は神様の世界と近代と、そして神話のリンク、すげえ!て感じが多いです。
だから観てないとどうにもなりません。すまん。
要するに「ん?」と引っかかったシーンだとか、登場人物の位置付けなんかを整理。
・・・をまとめると色々とつながる予定なんだけど、できない。がんばれない。(苦笑


《ヒト=サスケ》
世界記録を跳ぶ(空を飛ぶ)という夢を持った青年。
無垢と可能性の象徴。神話ではジークフリードにあたる(と思う)。
ヒトは鳥の目と虫の目を併せ持った視界を持つ。
どちらも内包してるけど、その組み合わせはヒトだけ。見える景色はヒトだけのもの。
飛ぶために生を受けたタマゴから生まれたヒトは
4足歩行から2足歩行へと生長していく。飛翔への準備段階。
飛ぶ(跳ぶ)ことはヒト(サスケ)自身の夢だが、
物語はヒトもサスケも飛べないところから始まり
流されたり利用されたりと振り回されて(そしてこの経験によって背負うものができて)
最終的に、飛ぶ。


《タマゴ生まれ》
タマゴから生まれた人間がお尻にその殻をくっつけてるっていうのは
這い出した形が4つんばい=4足歩行で、
それが立ち上がる⇒2足歩行⇒飛翔への準備って流れ?
空を飛ぶのが鳥類だからってのもあるのかしら。
どっちにしても、お母さんから生まれた人間て自力ではいつくばらないもんな。


《白夜と写真家(神様)》
百から一引くと白。百引く一の夜が白夜。
言葉遊びかなとも思ったけど、つまりそのままの意味なんだと思う。
100にひとつも巡り合えない夜。
そしてこの話が出てくるシーンは近代の日本。=白夜はありえない。
写真家が出したい、この白夜を撮った写真集の名前は『神々の黄昏』でした。
神々の黄昏というのはラグナロクの日本語訳で、
ラグナロクというのは神話の『終末の日』という意味です。
それを、残る99の普通の夜の写真に混ぜて、しかも裏焼きにして紛れ込ませる。
写真家の青写真は誰にも理解されることを求めていない。
いつか来るその時を迎えることこそが写真家の欲望だと。
この写真家=神様、神話では戦神ヴォーダンにあたるんですが
端的に言うとヴォーダンはラグナロクを待って暮らしている存在です。
ちなみにヴォーダンはラグナロク前に戦死します。=写真家は白夜を撮れない。

・・・怖いくらいリンクするなオイ。という話。


《ライト兄弟=刑事(=巨人)》
右田(刑事の役名)でrightで、刑事でlightなんで正義と権力の象徴。
与党=正義ってのを前提として
世間の正義で飛んでるから鳥の目を持ってて上から監視してる。
だから巨人の目線だったり飛行機から見下ろす眺めだったりするのかな。

随所に出てくる
「高いところでリンゴ食うとうまい」
「空を飛ぶのは俺たちだけの権利だ」
とかっていうのから、鳥の目線でいる優越感とか
自分が正当だと盲目に信じてる様子に軽薄さが垣間見れるかと。
マヒしていて考えない存在。世間の正義の駒。


《小人》
勢いと数で勝負してて論理を持たない集団。
いくつも眼を持ってるんだけど、認識できるのはその総体としての景色ってことかと。
そういう意味で複眼であり大衆の象徴。

ちなみに、冒頭のセリで腹話術的な芝居をしてたのが何なのかわからない。
単純に面白がってればいいのかね。


《ワル、キュ、ーレ!》
傷ついた人を癒す存在でありヒト(サスケ)の育ての親。母性の象徴?
まんま神話のワルキューレ。
オマケ(眠り姫)=ブリュンヒルデを守るのは彼女らの同胞だからです。
神話ではワルキューレもブリュンヒルデもヴォーダンの娘衆。
そしてジークフリードがブリュンヒルデを助けるんだけど
本作ではそれがサスケに(たぶん)あたると。


《オマケ(=眠り姫)》
火口の眠り姫と、テロリストの妹としてのオマケは損なわれたものたちの総体かと。
ワルハラを追われた姫で、テロリズムの被害者。傷口であり救うべき存在・・・?
サスケに相対するオマケは残存思念て捉えると考えやすい。(昨日までの部屋、とか)
不可侵領域の象徴としての白線を操作する存在として
サスケを導いてるってのもあるかも。

*神話だとブリュンヒルデ。ワルハラから追放されて眠らされている。
 救い出してくれた相手と結婚する約束になってるので
 火に包まれることで、ちょっとやそっとじゃ助け出せないようになっている。
 ので、ここから助け出せたら本物の勇者ってことになる。


《その後の信長》
影武者としての生が、主君の死(本能寺の変)にて終わる。が存在しつづけている。
自分の存在意義を確立できずに苦しんでいる。(家系図に載ってなかったり)
同時にオマケの兄としてテロリストであり、サスケのまさかの友でもある。


《テロリズム》
高跳びのはずが高飛びになっちゃって(奴は国外にいるぞ!)
信長の逃亡幇助で捕まりかける。
プラスチック爆弾の贈り物が内ゲバ的な悲劇を生んで
機動隊突入は浅間山荘。
もっと言うと、(言っていいのかなって迷いもありつつ)
その後の信長が『妄想の中で75回犯した妹』は
全共闘の性処理は隊員の女性が請負ってたってのに絡んでるのかな。
ともに戦う仲間≒家族に見立てた設定なのかなと。


《高跳びの棒》 割愛
トネリコの棒。材質:ユグドラシル。
ユグドラシルってのは世界樹のことです。
神様の世界の端から端まで伸びていて、世界を覆っている木。
その後の信長のセリフで
「そのトネリコの棒で飛べ。ユグドラシルを超えて飛べ」ってのがありました。
それだけでも衝撃的ですが
途中からグラスファイバーになったんですね、高跳びの棒。
グラスファイバー=ガラス、で
で、火口でもなんかガラスがどうこうって話出てきてたよね?
ガラスって何のキーワード?

・・・と、前回書いてたんですけども。
ガラス、やっぱキーワードだったかも!という話に友人となったんだけど
原作から今回上演するにあたってカットされた部分がネタ元なんで割愛します。


《剣を置きますと線を引きます》
何回も白線引いてたのって何なんだろうって思ってました。
滑走路で踏切線てだけじゃなあ、て。
で、こっからこっち入らないで!とかが出てきて、なんだなんだ?と。
したら最後さ、これ聞き間違いだったらアレなんだけど
その後の信長が「剣を置きます」っつってなかった?線のとこで。

剣を置きます、というのはジークフリードのエピソードだそうです。
媚薬を飲まされた男が、女性と同じ部屋に入れられたんだけど
間に剣を置くことで間違いを起こさなかったという話。

みずから線を引いて境界を作ることで、
傷つけ合わないようにしてたってことかしら。
本能としての闘争心の向かう先を、お互いではないって認識するための線ってとこかな。



・・・ごめん、もう力尽きていいかな。書き出すとキリないや。


《一応、演技の話も》
いや、ほんとド素人なんで何も言いたくないんだけど(笑)ちょっとだけ。
潤くん演じるヒト=サスケは、可能性を秘めた印象が合ってて良かったと思う。
というか、何よりこれを演ったことで潤くん自身の視界が拓けたんじゃないかなと。
なんかもうぜんぜん違う世界を見せてもらったんだろうなって思います。
これ、ほんとに潤くんにとって飛翔の足がかりになるよなあって。
・・・うまいこといったつもりで悦に入っちゃったのでここまで。お粗末さまでした。






で、こっからはまったくもって個人的な話。
先の感想の中であたしは
権利は与えられるもので、勝ち取ろうとしたことがない世代だと書きました。
でも、そんなことはないとも思うんだよ。
ただ、そういうものを他人事として捉えすぎてる社会って感じがするんだな。
興味がないっていうか、なんか世論がおかしくないか?て思うことがあります。
例えばすこし前なら盗聴法だって話題になった通信傍受法。
リアルタイムだったら共謀罪は今再修正案が提示されてます。
どちらも権力の範囲を広げるものだし、直接ではないけれど生活に響く権利でもある。
こういうの、考えてみてもいいんじゃないかなって思う。
そしてその時は、作中でも痛烈に皮肉られていたように
ジャーナリズムによる情報操作ってのも視野に入れておくといい。
つまり、盗聴法だなんて異名をつけたのは被害を蒙るマスコミであって
一般市民が「やめろ!」って絶叫する必要はなくないか?とかさ。
共謀罪だってさんざん叩かれて、極端主張をするサイトが乱立してたりしてますが
あんまりじゃないかって思うよ。
いくらなんでも裁判官なめんなって話だよ。
まあ、陪審員制を懸念してかもしれないけど、それにしてもさ。
あの論調がなんでまかり通ってるのかが理解できません。

というわけで、ジャーナリズムの職権乱用に近い部分とか
コビトたちの勢いなんかに飲まれたりしないように
自分自身として何がどうなのか、考えておいてもいいんじゃないかと思うわけです。
なのでもちろん、いま上で上げた例にしたって、
あたしが言ってることを鵜呑みにする必要はありません。
解釈は人それぞれ、持論を持って生きようよってな。

まあそんなわけで、そういう話に誰しもが熱くなってた時代という意味で
ちょっとだけいいなあ、と思ったりもするのでした、という話。

・・・ごめんねこんな終わり方で。
posted by あこ at 00:53| Comment(0) | 舞台/映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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